ヘアドネーションの話
こんにちは、どらちゃんです。
おととしの2019年は体調が悪く入院も少し長め、仕事も半年近く休んでいました。
そんな時にはなかなか美容院にも行けず、乙女の命の髪の毛も白髪は生え放題、髪は伸び放題、ぱさぱさして、いくら入院していたにしても、残念な状態の髪の毛でありました。
体調が戻り、ようやく美容院へ行き、さて髪型はどうするか、という話になった時に「結構伸びましたね~」と美容師さんに言われたその一言で私の中の何かスイッチが入ってしまったのか?「伸ばします、しばらく伸ばします!」
と思わず口から出てしまい、それ以来今日まで伸ばし続けています。
アラフィフになると管理の大変さや髪質の関係なのか、周囲を見てもショートヘア~セミロングの人が多く、ロングヘアの人はあまり見かけないように思うのですが、でも私は伸ばすことにしました。多分、髪の毛を伸ばすことが出来るのは、私の人生において、これが最後のチャンスような気がしたからです。
若い頃は時々伸ばしたこともありましたが、基本的にはショートヘアでした。ロングヘアできれいに髪を乾かしたりカーラーで巻いたりする技術を持ち合わせてない私は、手入れが簡単、という理由だけでショートヘアにしていましたが、肩を上げれば五十肩で痛いというアラフィフになってからにも関わらず、手入れの大変なロングヘアを目指すことにしました。もう若くないので伸びる速度は遅いですが、今ではかなり伸び、ポニーテールも余裕でできるようになりました。
さて、髪を伸ばそうと決めた頃、ネットニュースで「ヘアドネーション」に関する記事を偶然読みました。同県の小学生の男の子が髪を伸ばして、ヘアドネーションに寄付した、という記事。「ヘアドネーションって何?」初めて聞いた私は調べてみました。
ヘアドネーションとは
先天性の脱毛症や病気、事故などで髪の毛を失った子供たちのために髪の毛の寄付を募り、寄付された髪の毛を使ってウイッグを造り無償で寄付をすること。もともとはアメリカの団体が行っていた活動で、日本では2009年にNPO法人が活動を開始した。
なるほど。そんな活動があるのか!初めて知ったわけです。
調べてみるともう一つ分かったことが。
当初、日本ではこの活動の認知度の低さから髪の毛の寄付が少なく、最初のウィッグを提供するまで4年を要したそうですが、水野美紀や柴咲コウなどの有名人が参加したことにより認知度が上がり、寄付が急増した、そうです。
前述の小学生の男の子は、この活動に参加するために、髪を伸ばしていたのか~と、もう感心しまくった私。そこでまた私にスイッチが入りました。
そう、それなら! 「私もヘアドネーションしよう!」 そう決めました。
そう決めていろいろと調べ始めるといろいろと条件があることがわかりました。
寄付する髪の毛は、原則として31cm以上の長さが条件である。この「31cm」という中途半端な値の由来は。、もともと米国で「12インチ(=30.5cm)以上」が基準とされ、それを日本でメートル法に換算したためとされている。ただし、発祥元のひとつであるLocks of Loveでは2021年現在、12インチではなく「10インチ(=25.4cm)以上」を受け入れ条件としている。
そんな情報もあり、まだまだ伸ばす必要がありそうです。
後日、ヘアドネーションをしたい旨を美容院へ行った際に伝えると、とても喜んでくださいましたが、まだまだ伸ばす必要があるので、ヘアドネーションできるのに十分な髪の長さになるまでにはあと1~2年は最低伸ばしていないと、とのこと。でも、それで良ければ応援してくださるとこのことでしたので、頑張って伸ばすことに挑戦してみようと思い、現在進行形で伸ばしています。
なぜ今ヘアドネーションか?
答えは「私が生きている間にできる最後のボランティア活動だから」です。
災害が起きるとボランティア活動のために被災地に行かれる方がたくさんいますよね。私も災害が起きるたびに行きたい気持ちはいつもありました。でも、自分の体のことや体力を考えると難しい、それならば、とせっせと募金や寄付をしてきました。自分の体を提供できなければ、せめて金品の寄付をしよう、との考えからです。
また、自分が脳死状態になったら場合には、臓器提供をすることは決めており、家族にも意思表示してありますが、それは自分のあずかり知らぬところで行われることになる。だけど、生きているうちに募金や寄付以外に何かボランティア活動が出来ないかと模索していた私に、ヘアドネーションはまさにピッタリだったわけです。
寄付までには、まだまだ時間がかかりそうですし、髪を乾かしたりセットするのも自分で行うことが大変で面倒な日も多いです。でも、決めたからには実行したい。一つくらいは達成感を持ちたい。だから、今日も長くなってきた髪をとかしながら、寄付できる日を待っている私なのでした。
小さいどらちゃんのこと
何度も入院している私は、その時その時にいろいろな人と出会いました。同じ病気の人もいれば違う病気の人、老若男女問わず本当にいろいろな人に出会いました。そこから闘病の姿勢を学んだことも多かったです。
たくさんの出会いの中でかわいい子供さんとの出会いもありました。その子は、名前が私と一文字違いだったので親近感がわいてしまい、同室になってすぐ仲良くなりました。
昔は今と違って大部屋だとプライバシーも何もなく、みんなあけっぴろげで過ごしていたので、同部屋の方とお話をすることが多かったのです。そんな中でその子とは自然に仲良くなり、折り紙をしたり絵本を読んだりして日中を過ごしていました。
確か当時私は17歳、彼女は5歳だったと思うのですが、彼女は私のことを「どらちゃん姉ちゃん」と呼んでくれて、私も年の離れた小さな妹「小さいどらちゃん」が出来た気分で過ごしていました。
ほどなくして彼女は病棟が変わることになってしまい、離れてしまいます。それでも私は彼女が気になり時々訪ねて行っていたのですが、治療のために無菌室に入ることになり、面会謝絶となりました。
私は彼女の本当の病名は知らないままですが、強い治療のために無菌室に入る必要がある、と彼女のお母さんからお聞きしました。
私はそのうち退院しましたが、彼女の入院はまだまだ続いていました。
小学校へも行けたのかどうか、ちょっとそのあたりはわからないのですが、たぶん、低学年の頃はずっと入院していて殆ど通えなかったと思います。
その後私が転院したために入院中の彼女を見舞うことはなくなりましたが、それでも年賀状をはじめとして時々お手紙のやり取りはずっと続いていました。
そうしているうちに月日が流れ、私は結婚したり転居したり等々・・・彼女は小学校高学年頃に無事に寛解し退院、その後中学、高校、大学へと進学。それぞれの人生を歩いていきましたが、それでも私たちは年に一度の年賀状のやり取りをずっと続けていました。
今年も彼女からの年賀状が来ました。よく考えてみたら、もう30年以上の付き合いになります。実際に彼女に会うことはもう20年くらいしていませんが、それでもずっとお互い、近況報告の年賀状のやり取りをしています。
彼女は病を克服し、今は二児の母になりました。男の子二人だから本当に毎日あっという間です、と年賀状にありました。
小さな時からつらい治療を続けていた彼女、私も時に病気にくじけそうになった時にはこの「小さいどらちゃん」のことを思い出して奮い立たせていたこともあります。小さい彼女が頑張っているのだから、私も頑張ろうと・・・
だから、いつかまた会えることがあったら、彼女にお礼を言いたいなと思います。
もう私は出会った当時の「姉ちゃん」でなく「おばちゃん」になっているけれど、どんな話ができるか、その時を楽しみにしたいと思っています。
私の病気についての雑感
春ですね。桜が満開です。もうこの週末には散ってしまうでしょう。
今年の開花宣言は例年より早く、また、満開になるのも最速だったようです。そんな話を聞いてから見る桜はとてもいじらしく思えます。
さて、私のブログのサブタイトルのように、私はクローン病という病気を抱えています。診断を受けてから35年経つから(歳がばれるぜ)もうこの病気を持っている状態が日常になっています。また、その病気のために人工肛門になってから11年たちました。こちらにももう慣れました。
見た目からは何もわからないので、黙っていれば多分気が付く人はいないでしょう。
それでも私は病気があることを、障害があることを隠すようなことはなく、知り合ってからの割と早期にカミングアウトするようにしています。
その理由は特にありませんが、まあ、こんな体の人も世の中にはいて、それでも日常生活は送れるし、仕事もできるんだよ~とささやかなアピールしているってことでしょうか。
ところで、最近とある県の患者会の事務局の方と知り合い、その方とZoomでサシ座談会をしました。その後、その時にお話しした、私が病気を診断されてからの話を時系列にまとめて闘病記として、その患者会のHPに掲載したいとのお話をいただきました。
特に隠すこともないので二つ返事でOKし、まとめていただいた原稿に少し手直しをして先日提出しました。
その時、たぶん病気になって初めて、自分の闘病を時系列で追ったものを文章にしたものを読んだ気がします。
長かった自分の闘病は人生そのもので、その時々に起きていた細かなことや感情もいっしょに思い出されました。
病気の診断がつくまで、体調不良が起きてから1年半くらいかかったのですが、診断がつくまでの間親や先生を含め周囲から私の体調不良を「わがまま病だ」「怠けているだけ」と言われてとても悲しかったことを久しぶりに思い出しました。
また、親は親で「育て方が悪かったんじゃないか」と言われたり、症状の中で吐き気や嘔吐があったので「妊娠してるんじゃないの」と言われたことあったようで、親もつらかったんだと思います。
だから、そうとう体調が悪化し、もう寝たきり状態になってから診断がついたときには「どうしよう」という不安な気持ちより「良かった、病気がわかった、これからは治療すればいいんだ」と妙にホッとした気持ちがあったのを覚えています。
さて、闘病記は長くなるので今回は割愛しますが、私が病気をして失ったものは多かったと思いますが、病気をしたからこそできた経験や知り合った方も多く、そういった面では恵まれたと思います。
また、長い闘病の中では3人の主治医にお世話になりましたが、3人とも人間的にも尊敬できる愛のある先生方で、そういったことでは本当に恵まれたと思っています。
今の3人目の主治医とのお付き合いも間もなく20年目になりますが、全幅の信頼をおける先生で、いつも優しく話を聞いてくださり、そして真摯に私と向かい合ってくださるその変わらぬ姿勢には、心からの感謝しかありません。
しかし、その先生もあと数年で定年退職されます。お別れしなければならないのは避けられない事実で、今からそのことを思うと寂しくてたまりません。
今度はどの先生に診ていただくことになるかはわかりませんが、また愛のある先生に出会えると期待したいと思います。
私、「ママ友」いません
こんにちは。どらちゃんです。
福岡県で5歳の男の子が餓死した事件で、母親とそのママ友が保護責任者遺棄致死ということで逮捕されました。
母親の供述からママ友に金銭的にも精神的にも支配されていたということから事件が起きたとの報道されていました。今後の捜査によってこの事件の詳細がはっきりしてくると思いますが、今は男の子をご冥福をお祈りしたいと思います。
この事件の報道を聞きながら子どもが小さかった時に私にはママ友はいなかったなぁということをふと思い出しました。
同じ幼稚園や保育園の子どもと仲良しのお友達のママと仲良くなって、友達に発展する、ということは私にはありませんでした。
子どもが仲良しのお友達のおうちに遊びにお邪魔した時に私もいっしょに行って、数人のママとお菓子を食べながらおしゃべりをした経験はあります。また、保育園のお迎えの時にいつも会うママさんとお迎えの時にちょっと長い時間おしゃべりすることはありましたが、お迎えの時以外、例えばランチをしたりお茶したり、という経験はありませんでした。
ママ友がいたらよかったのかもしれないけれど、でも意識して作らないようにしていたわけでもなく、かと言って積極的に作ろうとしていなかった私は、とうとう子どもが高校卒業するまで、ママ友はいないままでした。
困ったことはあったかもしれないけれど、過ぎてしまうと忘れてしまうのでしょう、具体的な困ったことは思い出せません。
節目節目の時・・・例えば小学校や中学校の入学時、中学の塾選び、高校受験など・・・にわからないことや不安なことはママ友と情報交換していた、という話を聞いたこともありましたが、私にはそれがなかったけれど、その時その時に、例えば仕事で知り合った子どもより1年上のお子さんがいる方や、たまたま話をした近所の方などに聞きながら乗り越えてきました。
ただ、ママ友がいなかったために、子どもになにか友達関係において不自由な思いをさせていたことがあったかもしれないけれど、その辺は子どもに聞いてみないとわからないし、直接不満をぶつけられたこともないままに現在に至ります。
子育てに迷わなかったわけではないし、悩みもあったけれど、私・夫双方の両親も健在だったのでそこに頼ることが出来たし、夫も最初は面倒くさい感じは多少あったけれど、私が一生懸命に話を繰り返していったら、わりと相談に乗ってくれるようになってきたのでずいぶん助けられてきたので、私は恵まれていたのだと思います。
そして何よりも、現在のようにSNSも発達していなかったので、情報が入りにくかったことも良かったのかもしれません。
また、私には病気があって障害もあったので、いわゆる「健康なお母さん」のようにはいかないんだよな、という自分自身の中にあるある種の諦めとも言えるような感情のために、それほど友達作りに固執しなかったのかもしれません。
でも私は、ママ友を否定するつもりはありません。
私の妹はママ友が何人かいて、情報交換しながら日々過ごしているようで、パートの仕事もママ友の紹介だったと聞いたこともあります。また、妹は転勤族なので、移り住んだ土地での生活においてはママ友からの情報は助かった様子を見ていると、そういう存在が特に現在のように孤独な子育てをしている母親にとっては、大事な存在だということはよくわかっているつもりです。でも私は結果的にママ友はできないまま子育てが終わりました。
「ママ友はいらないわ!」というオーラを出していたつもりはなかったのですが、結果としてこうなってしまったのでこれはこれで良しとするしかないです。
それにしても、私って友達少ないんです(笑)
「友達と~~」なんて話をしたときに「えっ?友達いたの?」と子どもや夫に驚かれたこともあったくらい。
作らないでいるわけでないのだけど、結果としてできないのだから、仕方ないですね。
裁判傍聴初体験
3月3日ひな祭りに、私は、裁判の傍聴を住んでいる地域の地方裁判所へ行き初体験してきた。ひな祭りを狙ったわけではなく、行ける日がたまたまひな祭りだった、というだけのこと。また、傍聴したい裁判があったわけではなく、傍聴の体験がしたくて行ったのだった。
裁判の傍聴については以前から興味があり、今年こそは行きたいと思っていた。でも、裁判というのは平日の昼間にやっているため、今までは行くとなると休みを取らないとだめだったが、現在の仕事は平日が休みになることがあるので、状況的には行こうと思えば行けるようになった。
それでこの度決行した。
事前にネットで裁判の傍聴についての情報を収集して出かけた。
事前にインプットした情報のとおり、裁判所について最初に入り口案内のところで本日の開廷予定を確認した。
すると、今から15分後から刑事裁判が1件始まることがわかった。
「よし、チャンス!」と私は裁判所近くでの用事をそそくさと済ませ、初の傍聴に臨むことになった。
しかし、拍子抜けするくらい、厳重な警備とか、法廷に入る前の注意などなく、あっさりと手を消毒し、法廷に入ることが出来るのには驚いた。
事前の荷物チェックもないし、記名する必要もない。身分証明書の提示もなし。
コロナ禍であるにもかかわらず健康チェックシートの記入依頼もなかった。
そしていよいよ法廷に入る。
法廷にはすでに検察官、被告人の弁護人、書記官がスタンバっていた。
そしてしばらくしてから裁判官が入廷、開廷。もう、この風景はドラマで見た風景そのままで、感動してしまい鳥肌が立った。
そして被告人が被告人席へ着く。
私が傍聴した裁判の被告人は病気のためなのか車いすに乗ってやってきた。お年もめいていたような気がする。これが高齢化社会の裁判で、これからはこういう風景も増えるのかな、と思った。
ここではじめてわかったのであるが、裁判には3つの種類がある。
一つは「新件」、一つは「審理」、一つは「判決」である。これは何かと言うと、「新件」はその日、初めて行われる裁判のこと、「審理」は継続中の裁判のこと、「判決」は裁判官による判決言い渡しの裁判を意味している。
テレビドラマで言えば「新件」は第一回の放送、「審理」は途中の放送、「判決」は最終回の放送という感じだと説明するとわかりやすいと思う。
私が初めての傍聴した裁判は3つのうちの「新件」だった。「こういう事件をあなた(被告人)は起こしましたね。」という感じでの説明があった。その説明が終わり、「審理」の日程を裁判長が伝えて、今回の裁判は閉廷した。あっさり終わった。15分くらいだったろうか。
裁判の種類も知らずに傍聴に来て、あっさり終わってしまったことにがっくりしてしまった私は、もう一度裁判所入り口の案内のところに行き、本日開廷の裁判はないだろうかと調べてみた。
裁判所入り口の案内のところには、本日の裁判の予定を刑事事件と民事事件とに分けて印字されたものがファイリングされたものが置かれている。電子掲示板とかそんなデジタル機器などなく、いたってアナログなやつ。
それをもう一度見て確認したら、30分後くらいに今度は「判決」の裁判があることがわかったので、今日はそれも傍聴することにした。
法廷を出たところには待合室のような感じで椅子が置いてあり、自動販売機が設置されているスペースがあった。そこだけを見ているととても裁判所とは思えない。どこにでもある公共のスペースのようだった。
そこで飲み物を飲みながら時間をつぶし、次の裁判を待った。
次の裁判は「判決」。被告人が入廷し、裁判長が入廷すると間もなく、裁判長は判決を言い渡した。主文が先で、そのあとに判決理由を述べていた。
ああ、これがいわゆる判決ね…ふむふむ。
そして、判決理由の最後に裁判長が被告人を諭すような発言をして終わったのであった。そして、私の裁判の傍聴初体験も終わった。
意外と裁判というのは開かれたものであるというのが今日の印象である。
また、日ごろ姿勢を正して話を聞く機会が少ない私にとっては、久しぶりに椅子に浅く腰掛け背もたれによりかかることもなく背筋を伸ばし、静粛な中で話を聞いた。内容は理解不能なものもあったが、「シャッキーーーーーーン」という音がするほどシャキッとして話を聞いた。これはこれでいい経験だったと思う。
そして帰途にいろいろと考えた。
まったく縁のなかった被告人2名のこと、その家族のこと、事件のこと。
新聞の片隅で見たかもしれない事件はやっぱり現実に存在していて、逮捕されるとほぼ起訴され有罪となるんだ、というのは今ここにある事実なんだな、と実感がわいた。
地方裁判所では小さな事件の裁判しかないが、それでもこれからも時々裁判の傍聴をしてみようと思った。
面白いとかそういった感情ではないし、のぞき見趣味みたいな感情とも違う。言葉では言い表しにくい感情であるけれど、でも、また傍聴してみたいと思ったのだった。
気が付けば
なんと。
今日は12月15日ではないか。
今年ももうあと2週間ちょっとで終わるではないか!!
なんと早い一年だっただろう・・・
コロナ禍のせいもあるのだろうが・・・
そして、
私は半年近くもブログを更新せずに来てしまった。
ああ、
あと少しで終わる2020年をもう少し記録しなきゃと思う。
ミニマリストを目指して・・・
こんにちは どらちゃんです。
今から1か月半くらい前の話ですが。
緊急事態宣言が発令されたころの話をふといろいろと思い出してみて。
そう、片付けをしていたなぁと思いだしていて。
不要品?不用品?どっちが正しいんだろう? まずそこ、悩む~
不用という言葉の意味に「役に立たないもの」とあり、使えないものを意味して壊れているものを指しています。 一方、不要とは「必要でないもの」ですから、使わないものということになります。 壊れて使えない家電や使い道の無い粗大ごみなどは不用品。 使っていない金庫などの今必要ないものは不要品となります。
なるほどね。今回の自粛生活での家の片付けって不要品も不用品も出てきたね。
緊急事態宣言が出て「おうち時間」が増え、時間があったらやろうと思っていた家の片付けをしたり不用品(不要品)の処分をした方は多かったようですよね。
私の住んでいる自治体の自分でごみの持ち込みが可能なごみ処理場・・・
ゴールデンウイーク明けにはごみの持ち込みをする車で大渋滞だったと聞きました。
時間がないと大掛かりな片付けや不用品(不要品)の選別は出来ないので、大勢の人が自粛生活はそういったことに充てる時間にしていたのでしょうね。
私は片付けや不用品(不要品)を捨てることは以前からからやっていたし(療養生活を半年も送っていたので、時間はたっぷりあった)、もともとモノを捨てるのが好きな質なので、日ごろからチマチマと捨てているため、とりあえず落ち着いている感じでしたので、この度のおうち時間では特にやりませんでした。
モノを捨てるのが好きで抵抗感の少ない私に反して私の夫はなかなかモノを捨てられない性格のようで「タメコミアン」。
私も何度か「これ、捨ててもいんじゃない?」とか声を掛けましたがあまり乗り気じゃないし、夫婦ケンカに発展しそうでしたので、もうそれはやめることにしました。
そもそも人の考え方を変えることは、たとえそれが夫婦だとしても難しいので、モノを捨てることに関してはもうほっておくことにしました。夫の部屋がどんなにカオスになっても「ぐっ」と我慢して知らん顔することにしています。
それでも自粛生活中、やることがなくなった夫は、やっと部屋の片づけを始め、私から見ればわずかでしかないけれど不用品(不要品)を処分することをしていました。
夫は要・不要の選別にはかなり頭を使って考えてやったらしく、数日間処分の作業をやっていたらへとへとに疲れ切っていました。多分、まだ選別作業に慣れていないからなのだと思います。
私は最近はそれほど悩まずに捨てたりできるようになりました。
それよりも不用品(不要品)を捨てる、という行為そのものをしたくないので必要のないものを極力家に入れないように努力しています。
今は少ない持ち物で生活をしていく「ミニマリスト」の方がたくさんいらして、ブログやYouTube動画でその生活の様子を紹介しています。
私もそれらを参考にさせてもらっていますが、一生懸命ミニマリストを目指してしまうと、私の性格なのかどうも突き詰めてしまうようで疲れ切っていくようです。
自分でも参考にして実行出来る部分は取り入れ、出来ないところは参考程度にとどめていく、ということを心がけていくようにしています。
例えば、ミニマリストさんの中では家の中にある様々な洗剤・石鹸など洗浄するものを一つの銘柄に統一して、すべてに使いまわしている方が多いので(例えばシャンプー、ボディーソープ、洗濯洗剤、台所洗剤が同じもの、とか)私も真似してみようとしましたが、私は皮膚が弱くて荒れたり、しっくりこなかったりしたため、我が家では導入に至りませんでした。
人生の残り時間がそう多くはないのでモノを減らしてミニマムな生活をしていこうと思いミニマリストを目指していますが、まだまだ試行錯誤です。
モノを減らすやり方が自分に合うもの、合わないものもあり、いろいろ実験しながら、そしてなによりその生活を楽しみながらやっていこうと思う今日この頃です。
片づけやミニマムな生活は本来自分が楽しく生活するためにやるものだと思うので、それによって苦痛を感じてしまうのは本末転倒ですものね。マイペースが一番かも。
それでは、またね~